竹下さんと私、そしてトコトコ農園

初代トコトコ農園代表の神山 光路様より4月17日に逝去された竹下さんへの
追悼文を頂きましたので掲載いたします。


今年、2024年3月3日に竹下さんから電話をいただき、15分ほど話をしたのが最後の会話でした。
竹下さんはそれからほどなくして体調を崩し、一か月間、検査入院して、4月17日に急逝されました。

 あまりの急変にただただ驚き、なんで、どうにかならなかったの、あんなにお元気だったのに。
御年85歳、私の10歳年上の大学の先輩であり、トコトコ農園の実質的な共同設立者であった竹下さん。

 竹下さんと私の出会いは2009年6月に設立された所沢三田会設立準備メンバーの一員として知り合うことになりました。
三田会とは卒業年や地域、職域、出身サークルなどごとに活動する 慶應義塾大学 卒業生の 同窓会 組織です。

 私が退職後、2005年8月にNPO法人「がんばれ農業人」を設立し、2007年からホームページを立ち上げ、農業や食に関する話題等を取材して記事を掲載し始めました。

取材先の一つが東久留米市の「滝山農業塾」でした。その農業塾の代表が榎本さんで、同農業塾会員の一人Aさんが竹下さんと某製薬会社で同僚という関係でした。さらにAさんも同窓で、東久留米三田会の会員でした。Aさんの口添えで竹下さんを紹介され、私も所沢三田会設立準備メンバーに加わることになったのです。

 「滝山農業塾」は東久留米市役所の後援で設立され、会員はほとんどすべてが退職した男性で、共同で野菜をつくり、均等に配分するルールで運営されていました。公営の市民農園とは違い、水曜と土曜のどちらかのグループに入り、午前中に作業をするスタイルで運営されていました。退職後の男性が生き生きと活動している姿を目の当たりにして、私もぜひ会員として参加したくなり、榎本さんに直訴して農業のイロハを学ぶことになりました。約1年半の農業体験をするうちにNPOとして所沢に同様の会員制農園をぜひ立ち上げてみたいという思いが強くなり、竹下さんに応援を頼みました。竹下さんはいろいろな人脈をお持ちで、休耕地を貸してくれそうな農家を紹介していただきました。また二人で、休耕地情報を得るために所沢農協に相談に行きました。しかしいずれも色よい返事をもらえず、肝心の農地の借り受けは暗礁に乗り上げました。

 何か、伝手はないものかと思案に暮れていたころ、所沢三田会設立の中心メンバーで、地元所沢の名士の初代所沢三田会会長になられた平塚さんに相談したところ、所沢市下富地区の通称、十四軒の地主と姻戚関係にあたるので、そこの農地を借りられるかどうか交渉していただくことになりました。

 交渉相手はその地主の奥様、K子さんで、即刻結論が出て、地主の分家筋にあたる農地、約300坪を借りることができました。
ただし条件はひとつ、有機無農薬で野菜作りをすることでした。具体的には肥料は落ち葉堆肥を使うよう指示され、業者に連絡を取っていただき、土づくりの準備を始めました。

こうしていよいよ2009年4月に開園するための準備作業が始まりました。

 さあ、それからは目の回るような忙しさで、スコップ、一輪車、スキ、クワなど基本道具を買いそろえ、トラック3台分の落ち葉堆肥を竹下さんと私の二人で三日がかりで、できるだけ均一に畑に撒きました。竹下さんはお年のわりには機敏な動作で、作業は順調に進みましたが、竹下さんいわく、「こんな重労働は初めてで、体にこたえた」。

 しかし、開園するまでの準備はこれだけではありません。次に取り掛かったのが道具類をしまう作業小屋作りです。材料は鉛管、厚手のベニヤ板、屋根用の波板、それに鉛管をしっかり固定するための専用穴掘り器が必需品です。この穴掘り作業は竹下さんお気に入りで、10か所全部一人で掘ってしまいました。同時並行で会員の募集をホームページで告知するために農園のネーミングを考えなければなりません。

 所沢市民の農園という意味で「トコトコ農園」と名付けました。ホームページの告知効果は絶大で、10名以上の方々から入園希望をいただきました。会員第1号は言うまでもなく、竹下さんです。竹下さんの実家は島根県で、終戦直後の日本は食料不足で、どの家でも可能な限り野菜を自給していたそうです。子供たちも野菜つくりのための貴重な労働力で、農作業を散々、手伝わされたそうで、以来、農作業は大嫌いになったそうです。

 しかし、その農作業嫌いの竹下さんが、ゴルフと酒三昧の生活から、「トコトコ農園」中心の生活へとシフトしたのは自分でも信じられないと言ってきました。農業の魅力は奥深いものがあるようですね。

 ところで応募してきた中に数名の女性が入っていました。私は「トコトコ農園」が退職後の男性の居場所になればと考えていました。先の「滝山農業塾」の例を思い起こして。  

しかし女性の参加は意外であり、同時にこれは「トコトコ農園」をアピールする特色になるかもしれないと感じました。なぜかというと主婦が参加すれば、小さな子供たちを連れてきて、食育の一助になるかもしれないと。退職後の男の居場所だけではなく、所沢市民の居場所になり、食の大切さを実感できるのでは?

話が少し横道にそれてきたので、開園準備の話に戻ります。畑への有機肥料の散布、作業小屋作り、そして入会希望の会員が開園初日に畑に集合しても、やるべき作業が何も無い?では農園のイメージがわかないでしょう。そのため前もってジャガイモを植えることにしました。畝を数本作り、芽が出そろったところを見学してもらいました。

見学後はK子さんの屋敷内の駐車場に移動してもらい、開園に協力いただいた方々もお声がけして、ささやかな懇親会を開きました。

こうして「トコトコ農園」は次第に市民農園の態をなしていくわけですが、さしあたって十人以上の人が火曜グループと土曜グループに分かれて、午前中いっぱい農作業するためには簡易トイレと農業用の水、休憩所を早急に用意しなければなりません。

所沢、狭山、入間は武蔵野台地に位置しているため、農業用水は深い井戸を掘らなければなりません。周辺農家は自前で井戸を掘るか、共同の井戸を掘って農業用水を確保しています。周辺の地名で「堀兼(ほりがね)」という場所がありますが、文字通り、“井戸を掘りかねる”が語源になっています。また所沢市と狭山市の境には「七曲の井戸」という史跡もあるように、垂直に井戸を掘ることが技術的に無理なの、螺旋階段のように掘り進めてきたことから名づけられました。

井戸を掘るための資金もない「トコトコ農園」は雨水を利用するほかありません。そこで大工仕事の得意な会員が作業小屋の屋根の傾斜を利用して手作りの雨水槽に水を落とし込むようにしました。

また農作業途中の休憩時間には椅子とテーブルが必要になるため、その材料も入手しなければなりません。幸いなことに近くの新築住宅工事現場で必要なくなった木材をもらい受けることができたので、にわか大工仕事で頑丈なテーブルと椅子を用意することができました。この時の木材の運搬はK子さんの好意で軽トラを借り、運搬することができましたが、近々、中古の軽トラは必要になることは自明の理です。

しかし軽トラと簡易トイレの入手は意外な展開で、解決することができました。それは私の大学のゼミの1年後輩が横浜市で手広く貸農園ビジネスを展開していたのです。その彼が、中古の軽トラと簡易トイレを無償で譲渡すると申し出てくれたのです。

そこで活躍したのが竹下さんでした。竹下さんと私でその軽トラの荷台にトイレを固定し、マニアルの軽トラを延々と16号で横浜から所沢まで竹下さんが運転してくれました。    

途中、すれ違う車に奇異な目で見られましたが、難問解決の喜びに浸った二人の目にはおんぼろ軽トラと簡易トイレがピカピカに映って見えました。

開園から5年が過ぎると、会員も順調に増え、財政的にも余裕ができたので、耕運機などの農機具類も購入し、収穫物の種類も順調に増え、作業の休憩時に、夏はトウモロコシ、秋はサツマイモを、薪ストーブを使い調理して食するのが大きな楽しみになってきました。

埼玉県の中核都市の一つになった所沢で疑似田舎暮らし体験ができたことは望外の喜びです。現在会員は50名に達し、会員募集を一時的にストップするほどになりました。

これも竹下さんはじめ会員諸氏の協力で農園運営がスムーズにいきましたが、私自身の家庭の事情から、所沢を離れ札幌に移住することになりました。一時はNPO法人の解散も考え、会員諸氏に意見を求めましたが、圧倒的に存続を望む旨の意思に押され、竹下さんを扇の要にして、現会長の栗原さんを中心に複数名の方々に理事になってもらうことになりました。

札幌に2014年の春に移住したその翌年に竹下さん、元トコトコ農園会員の大出さん、村上さんの3人が2泊3日で拙宅に訪問していただきました。千歳空港に近い「北海道開拓村」、支笏湖、小樽運河、ニッカウヰスキー余市工場、積丹半島、ニセコなどを案内しました。

私がNPOがんばれ農業人と「トコトコ農園」の代表を辞してはや10年が過ぎました。光陰矢の如しで、あっという間の10年間でしたが、昨年は札幌に来ていただいた3人と千葉県南房総市での1泊旅行を楽しみました。行きは九十九里海岸を左に眺めながら館山方面に車を走らせ、帰りは房総半島の山の中を縫うようにして外房線「大網」駅で解散しましたが、千葉県は意外に思うかもしれませんが、東京の2倍半の大きさの県です。

今回の旅は房総半島の約西半分を走破したのですが、竹下さんは故郷の島根の風景を思い出したのか、日本の原風景に思いをはせたのか、いたく気に入った様子で、次は房総半島の東半分を旅してみたいとおっしゃっていました。
しかし、それも今となっては叶わず、竹下さんも私も悔いの残るところとなりました。(了)